vol.35 矯正歯科治療トラブルの大きな原因 ―矯正歯科治療契約―
矯正歯科専門開業医の全国組織である公益社団法人日本臨床矯正歯科医会(会長:陶山 肇)では、2024年3月21日(木)、メディア各社に向けて「矯正歯科治療トラブルの大きな原因 ―矯正歯科治療契約―」と題したセミナーを開催しました。今回は、その内容を踏まえ、治療に際してトラブルになりがちな問題と、その回避策を専門家の話を交えてご紹介します。(記事作成 2024年6月28日)取材・文:冨部志保子(編集・ライター)
近年人気のマウスピース装置を中心に
治療トラブルが増加
矯正歯科治療の広がりとともに増加するトラブル相談
咬み合わせと歯並びの改善を目的に行う矯正歯科治療。安定した咬み合わせを維持することは、歯科疾患の予防につながるとともに、口呼吸の改善や顎関節と咬み合わせのバランス向上など、さまざまなメリットがあります。
こうしたメリットが周知されてきたことで、昨今は「矯正歯科治療=子どもが受ける治療」という、かつての固定観念が薄れ、成長期の子どもからシニアまで、幅広い世代で治療する人が増えてきています。
と同時に、治療契約トラブルも目につくようになりました。その傾向は、日本臨床矯正歯科医会(以下、矯正歯科医会)が公式ホームページ上に開設している「矯正歯科何でも相談」に寄せられる相談からもみえてきます。
ちなみに、「矯正歯科何でも相談」とは、2004年3月からスタートした無料オンライン相談の窓口のことで、一般の方からメールで寄せられた矯正歯科治療に関する疑問や困りごとに、同会に所属する矯正歯科医がメールで回答するというものです。
開設以来、矯正歯科治療に対する社会の認知度の向上とともに相談件数が増加し、コロナ禍の2020年度は過去最多の461件に。その後、受付方法などの改定によって減少したものの、2023年度も200件以上の相談が寄せられています。
「治療契約に関する問題」が原因のトラブルが、全体の34%
ここからは「矯正歯科何でも相談」に寄せられた相談から、過去5年間のトラブルについて、使用する装置別にみていきます。
矯正歯科治療に使用される装置の代表的なものは「マルチブラケット装置」ですが、ほかにもいくつかの種類があります。その中から、次の5つに絞ってご紹介しましょう。
主な矯正装置
マルチブラケット
歯の表面に歯科用接着剤でブラケット(矯正器具)を貼りつけ、その溝にアーチワイヤー(細い金属線)を通して3次元的に歯を移動させる装置。
リンガルブラケット
歯列の裏側に矯正装置を装着して行う、外からは見えにくい装置。舌側(ぜっそく)矯正装置ともいわれる。
拡大床
薄い入れ歯のような装置に、拡大ネジ(スクリュー)を埋め込み、そのネジを回すことで歯列を広げる装置。患者さん自身で取り外しができる。
機能的矯正装置
口のまわりの筋肉の働きなどを矯正力として利用し、顎の骨格や歯並びを整える矯正装置。患者さん自身で取り外しができる。
アライナー
弾力性のある薄い透明なプラスチックでできたマウスピース状の装置。患者さん自身で取り外しができる。
これらの装置別の相談割合は、次のとおりです。
なお、マルチブラケット装置が装置別相談割合の筆頭となっているのは、矯正歯科治療ではマルチブラケット装置の使用が一般的で、使用する割合が高いためです。では、トラブルの原因は何でしょうか? 同じく、使用装置別にその原因をみていきましょう。
5年間の装置および原因別相談件数
トラブルの 原因 |
マルチ ブラケット |
リンガル ブラケット |
拡大床 | 機能装置 | アライナー | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|
治療技術に 関する問題 |
298 | 27 | 39 | 3 | 121 | 488 |
転医や治療中止に 関する問題 |
67 | 8 | 4 | 2 | 25 | 106 |
治療目的、診断、 治療計画に 関する問題 |
51 | 2 | 14 | 5 | 22 | 94 |
矯正歯科医の 診療姿勢に 関する問題 |
58 | 4 | 4 | 1 | 15 | 82 |
治療費に 関する問題 |
34 | 3 | 6 | 0 | 30 | 73 |
治療リスクに 関する問題 |
42 | 6 | 2 | 1 | 6 | 57 |
院長有事に 関する問題 |
30 | 0 | 3 | 2 | 19 | 54 |
矯正装置に 関する問題 |
6 | 0 | 2 | 1 | 8 | 17 |
患者側の原因など 上記以外の問題 |
8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 |
この結果を大別すると……
トラブルの原因を大別してみると、最も多いのは、治療の経過や結果への不満など「術者の技量や資質に関する問題」で、次いで転医や治療の中止に関することなど「治療契約に関する問題」となっています。
この中で、今回は見落とされがちな「矯正歯科治療の契約」に焦点をあて、その回避策についてご紹介します。
弁護士・井上先生にうかがいました
矯正歯科の治療契約や治療についての法的解釈
これから矯正歯科治療を始める患者さんがトラブルを回避するには、どうすればよいのでしょうか。矯正歯科医会の顧問弁護士も務める銀座誠和法律事務所の弁護士 井上雅弘先生に、身近な問題事例を踏まえつつ法的な観点からお話しをうかがいました。
「矯正歯科何でも相談」に寄せられたトラブル事例
まずは、「矯正歯科何でも相談」に寄せられたトラブル事例を2つご紹介しましょう。
(ご相談者および頭蓋診療所のプライバシー保護の観点から、実際の相談内容を要約しています)
●事例1:治療をキャンセルしようとしたら、キャンセル料を取られた(20代女性)
【相談内容】
当初、治療するつもりはなかったのですが、いつも通っている歯科医院で矯正の話が進んでしまい、アライナー型矯正の治療費全額を支払いました。その後、院長も若く、矯正の認定医でもないので、不安になりキャンセルをしようとしたら、「もう器具を注文しているのでキャンセル料が 30 万かかる」と初めて言われました。この場合キャンセルしても、本当に30万は戻ってこないのでしょうか?
●事例2:転勤により転医しようとしたら拒否された(40代女性)
【相談内容】
転勤のため転医しようとしたら、転医できないと強く言われました。 「来られなくなるのは自己都合なので中止となり、資料も渡せない」とのことですが、泣き寝入りするしかないのでしょうか? 最初の説明では転勤などあれば、治療先を紹介すると言われたのですが、実際にはそんなこと言ってないとの一点張りです。 資料さえもらえればいいのですが、規定などはないのでしょうか?
「最初にいいましたよね?」
「いえ、聞いていません」
⇒必ず契約書を取り交わしましょう
こうしたトラブルを回避するには、どうすればよいのでしょうか?
「まず、矯正歯科治療の契約は、一般的な医療治療と同様に『準委任契約』になります。これは治療の結果に対するものではなく、治療の過程でその対価を支払うことを約束する契約のことで、契約書などの書面がなくても成立します。つまり、口頭でも契約が成立してしまうので、患者さんは、まずそこに注意が必要です」
口頭で成り立つとはいえ、矯正歯科治療は基本的に自由診療で、治療費も高額。しかも、それなりの治療期間が求められます。そのため、必ず診療契約書を取り交わすことが大切なのですね。
「そうです。患者さんとしては、法的リスクを可能な限り回避するため、こうした契約書を用意している矯正歯科を選択することをおすすめします。また、治療契約書には、目安となる治療期間や料金の総額、内訳、リスクなどを記載されているのが通常です。契約書の内容は十分に確認し、わからないことはその場で矯正歯科医に質問し、理解しておきましょう」
契約書をよく確認するには、ある程度、時間が必要かもしれません。
「契約書を提示されたその場で締結する必要はありませんから、場合によってはいったん持ち帰り、日数をおいて検討するのもよいと思います」
「途中でやめたら返金はないと言われてしまった」
⇒不利益な規定がないか、事前に契約書の確認を
続いて、治療を途中でやめたら返金されないというケースについての法的解釈はどのようなものでしょうか?
「民法上の規定では、受任者(=術者)は、受任事項を履行した後でなければ、報酬を請求できないとされています。よって、途中で治療を終了する場合は、すでに履行した割合に応じてのみ、報酬を請求できます。言い方を変えると、報酬は後払いが原則ということです」
つまり、途中でやめても治療していない部分の返金はされるということですね。ただ、契約書の中には「途中で治療をやめても返金はない」と書かれたものもあるようですが……。
「一般的に矯正歯科治療は患者さんと矯正歯科医の契約なので、『消費者契約法』が適用されます。『消費者契約法』とは消費者の利益を守るための規定なので、矯正歯科医が患者さんにとって不利益な契約を仮に書面で交わしていたとしても、無効になる可能性が高くなります」
では、契約書にどう書かれていたとしても、実際には未治療分は返金される場合が多いということでしょうか?
「法的にはそうなります。ただし、歯科医側は契約書を根拠に返金を拒むことがあり、そうなると無用なトラブルの原因になりますから、契約書を交わすときに、こうした規定がないかを注意して確認しておくことが大切です」
「返金の基準が曖昧で……」
⇒清算目安についても事前にチェックを
次に、治療途中でやめた場合の治療費の清算について。
相談事例の中に、「転医ができないので治療を中止できない」という内容がありましたが、治療途中での転医は実際に難しい問題なのでしょうか?
「医療的な観点からみた場合、今やめるべきではないという考えもあると思いますが、法的な観点でいうと、治療の途中であってもいつでも患者さんは自由にやめることができます」
【注意ポイント2】のところであったように「途中で契約を終了でき、治療費の精算もしてもらえる」ということですね。その際、例えば一括で前払いをした患者さんが、治療が半分程度進んだところで中断した場合、半額を返してもらえるということでしょうか?
「基本的にはそうなりますが、実際には歯科医側としても使用した装置の実費や検査費用といった諸費用がありますから、まったくの半額ではない可能性もあります。いずれにしても、返金の金額は、中断時における実施済みの割合がどれくらいなのかが重要です」
「矯正歯科治療には一律の明確な基準が存在するわけではありませんので、基本的には歯科医師と患者さんとで話し合って決めることになります。それでも解決しない場合、訴訟でも争われることがあります」
「また『アライナー』を用いた治療の場合は、治療開始時にマウスピース状の装置を作製するため、仮に契約締結からすぐに中止を申し出ても、作製した装置の製作料は返金されないので注意してください」
「治療の途中で医療法人が倒産したら?」
⇒分割払いを選択しておくのも一案です
最後に、治療を受けている矯正歯科が倒産・閉鎖などした場合はどうなるのでしょうか?
「さきほどお話ししたとおり、治療の途中で中止した場合は、理論的には払いすぎた治療費は返金されますが、倒産・閉鎖した医療法人からお金を取り返せるかは正直、五分五分といったところです。金融機関や旅行会社が倒産した場合は、利用者を保護・救済する制度がありますが、歯科診療にはそうしたものが存在しません。
では、どうするかですが、やはり『契約書をしっかり見ること』につきます。あとは、診療費は最初に一括で前払いするのではなく、治療の進捗に応じた分割払にするのも一つの方法です」
多くの矯正歯科では分割払いを採用していますが、なかには一括払いのみという診療所もあるようですが。
分割払いに対応しているかどうかは、矯正歯科のホームページで確認できることが多いため、事前に確認しておきましょう。
矯正歯科医会からの提案
治療契約に関するトラブルを未然に防ぐために
ここからは、安心できる矯正歯科治療を受けていただくために、矯正歯科専門開業医の全国組織である矯正歯科医会の取り組みをご紹介します。
■矯正歯科診療所が備えるべき6つの指針
矯正歯科医会では、患者さん自身が信頼できる矯正歯科を見極めるための“受診時の目安”として、6つの指針を掲げています。
指針1頭部X線規格写真(セファログラム)検査をしている
セファログラムは診断のグローバル・スタンダードで、特に子どもの患者さんでは顎顔面の成長バランスや成長方向、量の予測をするために不可欠な検査です。
指針2精密検査を実施し、それを分析・診断した上で治療をしている
矯正歯科治療を行うためには、臨床検査として
①口腔内検査 ②顎機能と咬合機能の検査 ③顎のプロポーション検査 ④筋機能の検査、
また、診断資料の分析として
① 模型分析 ②頭部X線規格写真の分析
などの実施が不可欠です。
指針3治療計画、治療費用について詳細に説明をしている
矯正歯科では、検査結果を詳細に分析した上で診断を行い、治療計画を立案します。
治療計画については、わかりやすい治療のゴールやそのプロセスを患者さんに示しながら、それぞれの患者さんに適した治療装置とその効果,治療期間、第Ⅱ期治療の可能性(子どもの場合)、保定、後戻りの可能性や治療のメリット・デメリットおよび抜歯・非抜歯について説明を行います。
治療費用についても、治療費、調節料、支払い方法(一括・分割)、装置が壊れたときの対応、転医あるいは中止する場合の精算についても詳細説明を行い、患者さんの同意を得てから治療を行います。
指針4長い期間を要する治療中の転医、その際の治療費精算まで説明をしている
本会には治療中に転居等で診療所を変わらざるを得なくなった患者さんに、転居先にできるだけ近い矯正歯科を紹介する「転医システム」があります。
【紹介先】 | 当会所属の矯正歯科専門開業医※治療費の過不足も当会の取り決め目安に沿って精算 |
---|
指針5常勤の矯正歯科医がいる
常勤の矯正歯科医がいることは、以下のようなメリットにつながります。
○治療において画像診断ができる撮影機器などの環境・設備が整っている
○矯正装置が取れてしまったなど器具に不具合があっても、すぐに対応できる
○同じ担当医による一貫治療が行える
指針6専門知識がある衛生士、スタッフがいる
矯正歯科への豊富な経験と知識があるスタッフがいることは、次のようなメリットにつながります。
○矯正歯科医の指導監督のもとに、患者さんへのさまざまな対応が可能となる
○矯正装置を装着している患者さんの口腔衛生指導が行える
○治療中の食事指導が行える
■安心できる矯正歯科治療契約を結ぶための7つの提言
加えて、今回ご紹介したトラブル事例を踏まえ、矯正歯科と治療契約を結ぶ際の注意点を「7つの提言」としてまとめました。
提言1矯正歯科治療を始める前には必ず治療契約書を取り交わしましょう
提言2治療契約書の内容を十分に理解し、納得してから契約しましょう
確認すべき事項① 治療契約や治療費に関連するリスク
確認すべき事項② 治療費
確認すべき事項③ 転医や中止の際の取り扱い
提言3転居やその他の理由で通院できなくなった場合に備えて、転医の方法、治療中止時の治療費の取り扱いを含む、その後の対応について説明を受けましょう
提言4モニター治療、セミナーを利用した相談会などの体裁を取った不適切な治療勧誘にご注意ください
提言5治療契約前に治療費の支払い方法についても確認しましょう
提言6治療契約の内容に変更が生じた場合には、変更箇所を書面で確認しましょう
提言7契約書と領収書を確認・保存しましょう
■やむを得ない場合の転医をサポート
矯正歯科医会では、トラブルを未然に防ぐために治療途中で患者さんがやむを得ず転医する場合は次のことに配慮しています。
- ・転医やその後の治療について、患者さんに十分に説明する
- ・転出する患者さんについては、確実に引き継ぎ医に紹介する
- ・これまでの治療内容、今後の治療方針は確実に引き継ぎ医に伝える
- ・患者さんの転出時は、「治療の進行程度」により、治療費を精算する
■目安となる返金の基準を提示
矯正歯科治療は一つの医療機関で完結することが理想です。それは治療方針・治療費が医療機関によって異なるため、転医することで新たに治療方針が変更する場合やさらなる治療費がかかる場合もあり、ほとんどの場合、治療期間も長引くためです。それでも転医しなければならない場合は、まずその理由を現在の医療機関にお伝えし、改善策を相談することを強くおすすめします。
矯正歯科医会ではマルチブラケット装置を使用して矯正歯科治療を行っている患者さんがやむを得ない理由で治療を中断する場合、診療報酬の精算目安を公開しています。
●永久歯列期のマルチブラケット装置による治療の場合
(既に全額入金となっている患者さんに対する返金割合の目安)
治療のステップ | 返金額判断の目安 |
---|---|
全歯の整列 | 60~70%程度 |
犬歯の移動 | 40~60%程度 |
前歯の空隙閉鎖 | 30~40%程度 |
仕上げ | 20~30%程度 |
保定 | 0 ~ 5%程度 |
●乳歯列・混合歯列期の治療を開始した場合
1)第Ⅰ期治療分のみの治療契約をしている場合
○主訴または第Ⅰ期治療の目標が達せられていれば、治療終了として精算額は0円とする
○主訴が改善されていなかったり、治療の継続が必要と判断されたりする場合には、
現在までの治療内容と今後予想される治療期間を考慮して決定する
2)第Ⅱ期治療(永久歯列期)まで含めて治療費の契約をしている場合
第Ⅰ期治療が終了していれば、精算判断の目安は40%程度とする
■契約書のひな形を作成し提供
矯正歯科医会では、患者さんに不利益が生じないよう、治療契約時に注意すべき点を踏まえたモデル契約書を作成し、所属会員への周知を図っています。
矯正歯科治療契約書のひな形
なお、矯正歯科医会の公式ホームページには、同会に所属する全国の矯正歯科診療所のリストがあります。安心・安全な治療のために、ぜひお役立てください。